山椒魚 2/2

続きになります。

 

 私が今回紹介している『山椒魚』は、新潮文庫さんから出版されている短編集です。この中で、表題以外にも面白かった作品があったので、紹介させていただきます。

 

六番目に収録されている作品『シグレ島叙景』。このお話が大変面白く印象に残りました。主人公のある男が昔住んでいたシグレ島という場所の回想によって、物語は始まります。

この島の脇にはいつも船が停まっており、その中の一部屋を主人公は借りて住んでいます。船自体が住居となっており、住人はほかに二人いて、伊作という老人とオタツという女性です。この二人がこのシグレ島を管理しているらしく、島に無数にいる兎を育てています。しかし二人は顔を合わせれば怒鳴りあいの口喧嘩ばかりで、主人公はほとほと参ってしまっています。

この口喧嘩の会話文がたいへん滑稽で面白いです。少々方言混じりのようななまったような強い口調で二人は日々怒鳴りあいます。

(抜粋)「これではまるでだいなしになったでがす。削ってとらねばならん!」

これは伊作の第一声ですが、この時点でだいぶクセの強い性格が見えるかと思います。出ばなから二人はカンナ(木を削る道具)の刃の研ぎ方で喧嘩をしています。

 次のシーンで、近くを通った船に向けて半鐘を鳴らしながら、またも始まる喧嘩がたまらなく好きです。半鐘を叩く手は止められることのないまま喧嘩が続くので、はたから見ている主人公は二人が何を言っているのか全く聞き取ることができません。しかし二人は目の前で、代わる代わる互いの耳に口を寄せては大声で怒鳴り合っています。描写の仕方が絶妙すぎて、文章なのにもかかわらず「うるさい」なんてものじゃありません。このシーンだけでも読んでほしい所存。

 この時代の文学作品の傾向なのか、専門的なことはわかりませんが、ここにある作品群はどれもオチがなかったり弱かったり、山もそれほど大きくはありません。するするっと読んでいると急に終わります。伏線のような描写があっても、回収されることはありません。ですが、この『シグレ島叙景』は割と山とオチの起伏が大きいので、私の印象にも残りやすかったのだと思います。オタツが家出(?)してしまったくだりも、オタツがいないと調子が出ない伊作の様子が、哀れでありながらも少し笑いが漏れてしまいます。

 

全体内容としては割とのんびりした作品群なので、力を抜いて読める作品だと思います。ぜひご一読ください。おすすめです。

山椒魚 1/2

 今回は私の好きな文豪の一人、井伏鱒二の紹介です。代表作『山椒魚』を取り上げていきましょう。

 

 もともと手に取ったきっかけは、ゲームキャラクターとして井伏先生が実装され、知らない作家さんだけど読んでみようと購入したのでした。

小さい頃からの本好きなので、前回の島崎藤村の著作もそうですが、読みたいと思ったらすぐ書店に行ってしまうのは私の癖ですね。作品の前情報も何も調べずに購入してしまいます。今回は代表作が『山椒魚』というタイトルであることしか知らず、物語も一文字たりとも知りませんでした。

 

結論から言うと、私はこれを読んで井伏先生の大ファンになりました。

まず魅力的だったポイントとしては、文章がコミカルで面白い。現代に近い文章で書かれているため、するっと頭に入ってくる描写が多いです。表題にもなっている『山椒魚』は、冒頭からグッと心を惹かれました。『山椒魚は悲しんだ。』から始まる一連の文、たったひとことの台詞『「何たる失策であることか!」』。こんな短い文章だけで山椒魚の狼狽を描き切ってしまわれているのです。一気に私は読者から山椒魚本人へと変わりました。ずっと住処のあなぐらでのんびりしていたがために、自分の体が大きく大きく成長してしまい、小さな出入口の穴から出られなくなってしまった山椒魚。水底の暗く狭い穴の中で、これから一生を過ごさねばならなくなったと理解した時の絶望感、悲哀がおかしくも切に伝わってきます。

こう引き合いに出すのは良い事か悪いことかわかりませんが、私の好きな現代作家である森身登美彦先生の文章と似ているな、と感じたことも記しておきます。多少回りくどく適度に堅苦しく、それでいてユーモアがある語り口や動物の擬人化という点で、おそらく私の頭の中で結びついたのでしょう。なるほどこれは好きだな、と更に納得しました。

 

山椒魚は何度も小さな出入口に大きな頭を突っ込み、そのたびにコロップ(コルク)の栓のように挟まっては後退し、暴れたおかげで砂まみれになり、それを小エビに失笑されると散々です。『「ああ寒いほど独りぼっちだ!」』悲痛な独り言とすすり泣く声が響きます。

どれもこれも全て挙げたいくらいに、井伏先生の紡ぐ台詞が絶妙な感情を表されていたり滑稽であったり、とても胸に響くのでここも魅力のひとつですね。山椒魚のあなぐらに蛙が迷い込み、その蛙を山椒魚は閉じ込めてしまいます。お前もこの穴に閉じ込めてやると、仲間を作ったわけです。最初こそ言い争っていた二匹は一年の時を過ごし、最後に交わす会話は切なく終わっています。

続きます。

桜の実の熟する時 2/2

 続きになります。

 さすが文豪というだけあって、やはり描写の繊細さは異常なほどです。消化中の私のメモより、「描写はしっかり安定しているのに桜の花びら一枚の落ち方が少しでも違うだけで全てが崩れてしまいそう」。緻密に計算されたかのように繊細で、緻密な計算にほつれがないからこそ安定している……といいますか、全くと言っていいほど粗がないです。

一度するすると読めれば、捨吉(島崎先生)が見ていた当時の風景が微細に目の前に広がります。自然主義文学ですので、日常で起こりうるあらゆる事柄は書かれていますが、どれをとっても美しいと私は思いました。たとえば、捨吉の寝依を洗ってくれている下女の場面。

『下女は盥(たらい)の中の単衣を絞ってお婆さんに見せた。それが絞られる度に捩じれた着物の間から濁った藍色の水が流れた。』

まだ思春期の済まない捨吉の着物は、がんこな皮脂がなかなか落ちませんね、と目の前で話され、とても恥ずかしい。という場面です。上記の文の後に『憂鬱――』と、成長期の体の変化を嘆く一連の語りが入ります。

 羅列されている事柄自体は、私たちの体に起こる様々の変化、代謝のそれらで、決して美しいとは言えないものたちですが、組み上げられた文章はどこが欠けてもおかしいように大変綺麗にまとめられているのです。おかげで、自分自身の記憶の底にある成長期の悩みが捨吉と同じように思い起こされ、生々しく脳裏に焼き付きます。

 

 捨吉の人生を文字で追いつつ体験している……今でいうところのVRに近い感覚だと思いました。この例えは突飛なうえ誇張もありですが、的外れでもないと思います。実際に体験している感覚と類似しているわけで、作中で一日が過ぎると私の脳も一日分の記憶が増えているような錯覚を起こし、変に気疲れしながら読み進めました。とはいえ、読了後の充足感は保障できると思います。

 

 島崎先生の著作を読もうと思い立ち、書店へ行って吟味し、『初恋』や『夜明け前』ではなくなぜ『桜の実の熟する時』を選んだかはちょっと覚えていませんが、これを島崎藤村入門に読んだのはチョイスミスだったかなあというのも正直なところです。なんせ長い、濃い、平坦ですからかなり根気がいりました。他作品は未だ読んでいないためわかりませんが、もう少し短いものか『桜の実~』以外を最初に読むことをおすすめします。

 自分の日常と同じ空気感でゆったりと物語は進行するので、はらはらドキドキの作品よりも、まったりしたい人にはお勧めの一冊となっております。

桜の実の熟する時 1/2

 今回の表題は島崎藤村の著作です。1919年1月に書き上げ、出版された長編小説です。

 島崎先生は自然主義文学に代表されるように、ドラマチックな展開や突飛な仕掛けは一切描かず、私たちが過ごしている今と同じような日常を事細かに描写されます。

 まず私が読んだ感想としては、何の変哲もない一人の青年の人生を、追体験させられるほどの濃厚さに息が詰まる思いでした。文章量の多さと、描写の繊細さに圧倒されます。注意していただきたいのは、日常を事細かにつづった日記のような小説なので、はっきりした起承転結がなく、淡々としている点です。

起伏が少ない、情報量が多いので一気に10ページも読み進められず、暇な時に少しずつ進んで、一年ほどで読了しました。

 

 主人公の捨吉のモデルは島崎先生ご本人で、自伝書として書き上げられたものとのことです。

 作中、捨吉が通っているのは基督(キリスト)系のミッションスクールで、作中には讃美歌や聖書の引用がいくつもあります。学内にある教会でのお祈りシーン、英語の歌や、捨吉が簡単な英語を使って接客をするシーンもあります。日本が少しずつ海外の文化を取り入れ、日常になじみ始めた時代だったのでしょうか、捨吉の周囲には、そういう洋風の空気が流れているようです。背景には日本家屋に和服の人々も描かれているため、西洋の文化に明るい捨吉は少し特別な存在のようにも感じられます。

 島崎先生の実際の友好関係が作中に反映され、モデルがいる登場人物がほとんどのようです。捨吉が学友と交わす会話は若者らしく活力にあふれ滑稽で、家の人間と交わす言葉はなんとなくよそよそしく、どこをとっても“よく見る日常”の会話になっており「さすがだなあ」と思わざるを得ません。それらは実際に島崎先生が発した言葉たちなのかもしれないと思うと、更に興味深いですね。

 

 全体に捨吉の学校生活から自宅での様子、仕事中のできごとが起こった順に記されていますが、若者らしく学生らしく、女生徒との恋愛模様も絡んできます。

 冒頭では既に失恋しており、ずっと慎重に避け続けてきたお相手とばったり出くわしてしまい、どうしようどうしようとおろおろする捨吉の様子があります。お相手は車に乗り近づいてくる、隠れるような場所もない道でどうにか隠れようと必死にきょろきょろする捨吉、とっさに意味もない場所に視線をそらしてやり過ごす、あの気まずい心持が緊張感と共に伝わってきます。

続きます。

 

牧水の恋 2/2

 続きになります。

 不倫をしていた小枝子、不倫だとも知らない若山先生。小枝子が何かを隠していることは先生も何となく分かっていたようで、歌や手紙に端々が見えます。

 歌もそうですが、友人に宛てた手紙の内容もなかなか人柄が出ていて面白いです。小枝子と年越しの旅行に行った際に出された手紙では、人生が楽しくて仕方がない!と溢れんばかりに伝わってくる文章をつづっておられました。むしゃくしゃして手紙を書いていても、「少し散歩に出ていた」と記して頭を冷やす様子も見て取れました。私はこの手紙の部分で見える先生の人間らしさこそ見てほしいと思います。

 恋文も載っているのですが、またこれが情熱的で、言葉回しだけで胸を熱くする、さすがは文豪といった内容です。「君のためならなんだってするよ」ということが、言葉巧みにつらつらと気持ちよく書かれている。一言一句から生命力を感じる若山先生の文章がとても好きです。

 

 小さい頃から親しんできた存在とはいえ、大人になって改めて触れてみると感じ方の違う部分がたくさんありました。

 

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただよふ

 

 有名なこの歌は、牧水かるたの第一首目に設定されており、私も通った地元の小学校で一番始めに習う若山先生の歌です。本書を読む前から、この歌の言いようのない寂しさを完璧に表した言い回しが好きでしたが、当時の恋の背景を知るとまた更に深みが増します。

 先生と小枝子は何年も共に寝起きしたり旅行に行ったりしていますが、お互いがお互いに寂寥感をもっており、ただただもどかしいまま寄り添っています。また、先生はたびたび海に対して敵対心を見せ、「たとえわだつみ(海の神)に差し出せと言われても小枝子は渡したくない」などと詠いました。そういう想像力も豊富な方だったのだとも思います。

 

山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや恋終りゆく

 

 私の一番好きな先生の歌です。さびしさを表現するための想像力が天才的で、読むたびに胸が詰まります。自然の中で育った経験からこんな「山奥にひとり死ぬる獣」などという言葉が出てくるのかと思うと拍手が止まりません。そんな表現力もあいまって、本書『牧水の恋』では若山先生の感情の起伏を如実に感じられてかなり面白いです。

 合間に俵先生自身の作品もたくさん紹介されており、俵先生も若山先生に強く影響されていたと分析されているなど、なかなか興味深かったです。

 

 小枝子との恋に破れた後、本妻を持った後の若山先生とその晩年にも触れられています。恋愛以外のエピソードも豊富です。短歌がかなりたくさん引用されているため、お気に入りの歌が見つかるかもしれません。付箋があれば、気に入ったページに挟んでおくことをおすすめします。

 

牧水の恋 1/2

 牧水は宮崎を代表する詩人・若山牧水です。自然と酒を愛しそれにちなんだ短歌を数多く残しています。そんな彼の人生を作り上げたともいえる、情熱的な恋にフォーカスして、牧水の意志を継ぐ現代の歌人俵万智さんが本書を書き上げられました。

 

 牧水を調べると、出身地宮崎県が展開している若山牧水の紹介ページがヒットします。

 私自身、彼の出身地の真横の村で生まれ育ったため、小学校から慣れ親しんだ文豪でした。しかしそれは“文豪”としての若山先生の姿でしかなく、上記の紹介ページの情報しか知りません。

 そこへ、『牧水の恋』が俵先生著で発売されました。少なからず地元の有名人ということで尊敬していた若山先生のことを、俵先生というビッグネームが研究して評伝として出版された。すぐに書店へ行って購入しました。

 

 若山先生が大学在学中、恋をつづった短歌をいくつも詠まれました。それを取り上げるところから本編は始まります。

 内容は前後しますが、印象深い歌をいくつか引用します。

 

くちづけは長かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る

松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ

白粉と髪のにほひをききわけむ静かなる夜の黄なるともしび

 

 以上三句からもわかるかと思いますが、若山先生は黒髪を非常に愛していた様子です。今で言うフェティシズムに近いものですね。かなり多く黒髪に関する歌を詠まれたそうです。こうして黒髪を愛でているものが大多数ですが、恋がうまくいかなかったり、恋人につかれた嘘が判明したりした時に「その髪を燃やして目を潰して謝罪しろ!」というような過激な歌もあり、なかなか執念深い部分も見えます。

 

 本書での逸話は、小枝子という女性との恋愛が主としてつづられています。小枝子は誰が見ても美しいと評判の器量のよい人物だったそうです。若山先生とは互いに惹かれあっていたようですが、若山先生は恥ずかしがってか否か、周りには「そんなに美人じゃない」と触れ回っていたというエピソードもほほえましかったですね。

 二人でスケッチに出た時のお話もありました。若山先生はここでも小枝子の絵を「へたくそだよ」と、友人宛の手紙につづっていて、なかなかにかわいらしいです。

 

 国木田独歩の『武蔵野』を愛読し、武蔵野にもデートによく訪れたとか。小枝子とまだ正式なお付き合いも始まっていないのに、熟年夫婦らしい雰囲気を出しているところがなんだかもどかしい情景です。

 忘れていましたが、実は小枝子は若山先生と出会った時には既婚で、子どもまでいます。実家広島に家族を置いて、東京で若山先生といわば不倫の一歩手前(?)だったのですが、小枝子はそれを若山先生に伝えることなく仲を深めていきます。

続きます。

赤い蝋燭と人魚 2/2

続きになります。

 

 人魚が絵付けをしたろうそくは大盛況で、幸せになった彼らですが、ここから物語は下り坂を転がり落ちてゆきます。

夫婦はある時香具師に、「その人魚を売ってくれ」と申し出られるのです。推測ですが、文脈からし見世物小屋でしょう。それはいくら温厚な夫婦ですら怒りますよね。最初は何度も追い返します。

 

しかしなんと、その後夫婦は娘をその香具師に売ってしまうのです。読んでいた私は思わずええっと声を上げました。あんなに大事に可愛がっていたのに…?何年も一緒に暮らしたのに…?仰天でした。

そこで“人間の闇”がくろぐろと書き連ねられるわけですが、「人魚は不吉な生き物だ」という吹聴を信じたのはまだしも、大金に目がくらんで娘を引き渡すという老夫婦の非道さが恐ろしいです。なかなかに精神的な攻撃力が高かったです。

娘は抵抗もできず香具師とその街を出ていきました。ここで冒頭の、人魚の母親のことが思われます。やさしい人間を信じて愛する我が子を託したのに…。

そこから先は、ろうそくが船のお守りの逆効果になり、転覆事故が多発するなど、不幸が重なります。そして、かつてそんな町があったんだよ、という終わり方をしています。この部分が、祖母から聞いた不思議な伝承のような余韻を含んでいて好きな部分ですね。

 

 ここまで割と粗探しするように書いていますが、冒頭でも言ったように私はこの作品が好きです。まず冷たい海に面した町、これはこの物語の全体の雰囲気を具現化したものだと解釈しています。南方で育った身ですが、冬の海の過酷さは知っています。確実にこの舞台はそれ以上の冷たさでしょう。温かな家庭に見えても、金に目がくらめば一転、極寒の海のような冷たさを人間は発揮できるということではないでしょうか。とても秀逸で、しかし想像しやすく、他にはない表現方法だなと思います。

 また、エゴイズムも作品中要所に見られます。最初の人魚の母親は、自分が考えうる幸せの形を自らの子に無理やり押し付けたとも取れます。赤子を拾った夫婦も、「かわいそうだから」「人間ではないから」という同情で人魚の娘を育てていただけ、という可能性もありますね。それなら香具師に売り渡したのも納得です。

 香具師に売られた人魚の娘は冬の荒波に翻弄される船のようです。その後、何か奇跡でも起こって本当の幸せをつかんでくれることを祈るばかりです。これも私から出たエゴになってしまうので、人間の性というものですね。

 

 終始一貫して、広大な冷たい海を彷徨うような文が織りなす物語です。

 王道ではなく、切ない、さびしい物語ですが、小さい頃に読んでもきっと好きになっていただろうなと思う作品です。

 ご拝読ありがとうございました。これを機に小川未明作品に興味を持っていただけたら嬉しいです。