桜の実の熟する時 1/2

 今回の表題は島崎藤村の著作です。1919年1月に書き上げ、出版された長編小説です。

 島崎先生は自然主義文学に代表されるように、ドラマチックな展開や突飛な仕掛けは一切描かず、私たちが過ごしている今と同じような日常を事細かに描写されます。

 まず私が読んだ感想としては、何の変哲もない一人の青年の人生を、追体験させられるほどの濃厚さに息が詰まる思いでした。文章量の多さと、描写の繊細さに圧倒されます。注意していただきたいのは、日常を事細かにつづった日記のような小説なので、はっきりした起承転結がなく、淡々としている点です。

起伏が少ない、情報量が多いので一気に10ページも読み進められず、暇な時に少しずつ進んで、一年ほどで読了しました。

 

 主人公の捨吉のモデルは島崎先生ご本人で、自伝書として書き上げられたものとのことです。

 作中、捨吉が通っているのは基督(キリスト)系のミッションスクールで、作中には讃美歌や聖書の引用がいくつもあります。学内にある教会でのお祈りシーン、英語の歌や、捨吉が簡単な英語を使って接客をするシーンもあります。日本が少しずつ海外の文化を取り入れ、日常になじみ始めた時代だったのでしょうか、捨吉の周囲には、そういう洋風の空気が流れているようです。背景には日本家屋に和服の人々も描かれているため、西洋の文化に明るい捨吉は少し特別な存在のようにも感じられます。

 島崎先生の実際の友好関係が作中に反映され、モデルがいる登場人物がほとんどのようです。捨吉が学友と交わす会話は若者らしく活力にあふれ滑稽で、家の人間と交わす言葉はなんとなくよそよそしく、どこをとっても“よく見る日常”の会話になっており「さすがだなあ」と思わざるを得ません。それらは実際に島崎先生が発した言葉たちなのかもしれないと思うと、更に興味深いですね。

 

 全体に捨吉の学校生活から自宅での様子、仕事中のできごとが起こった順に記されていますが、若者らしく学生らしく、女生徒との恋愛模様も絡んできます。

 冒頭では既に失恋しており、ずっと慎重に避け続けてきたお相手とばったり出くわしてしまい、どうしようどうしようとおろおろする捨吉の様子があります。お相手は車に乗り近づいてくる、隠れるような場所もない道でどうにか隠れようと必死にきょろきょろする捨吉、とっさに意味もない場所に視線をそらしてやり過ごす、あの気まずい心持が緊張感と共に伝わってきます。

続きます。